明治21年(1888年)、初代岩三郎の息子である文左衛門は、土田の地を離れ、名古屋市東矢場町へ工場を移転しました。明治22年(1989年)には東海道線が開通し、文明開化の進むこの町で、文左衛門は事業の基礎固めに専念していました。
ところが、名古屋に移転して3年目、文左衛門の意図を打ち砕くような天災が起こりました。明治24年(1891年)10月28日午前6時に発生した濃尾大震災です。後に3代目岩三郎(文左衛門の子)は「日夜数十回の大小の地震があり、工場は半壊、煙突は倒れてしまったので、工場は約1ヶ月間休まざるを得なかった。屋内はあぶなくて仕方がないので、掘立小屋にて過ごし、その間にようやく煙突及び工場の復旧がなり、事業に邁進することになった。」と語っています。
文左衛門はこの地震を「天の試練」ととらえ全力で復旧、その後、工場を東矢場町から東二葉町に移し、事業の再建・発展に全力を尽くしました。
明治中期の溶解窯の図、及び製品